すみれ(菫)

吉本隆明/詩/大正炭鉱闘争/共産主義者同盟叛旗派/

2022年10月1日に別のブログに投稿した文章

本稿では、吉本隆明の『転向論』そのほかの著作を少し変則的に読んでみます。まず、吉本隆明の『転向論』から得られる教訓のひとつは、「一度インテリ上昇をはじめてしまったプチブル・非インテリ階層出身者は、堂々と上昇すべし」ということです。「プチブル・非インテリ階層」というのは、まあ要は「家庭に、子どもを四年制大学に行かせられるくらいの財力はあるけど、別に周囲に日常的に学術書を読み漁っていたりするような人はいない」くらいの意味です。

特にもともと親や親せきなど身近な大人が人文系のインテリだったりしない場合、いちどどこかで本に「目覚める」みたいな経験をするはずです。これは以前作家の平野啓一郎さんがどこかで自身の体験とまじえて話していて興味深かったことなんですが、まあ「三島由紀夫」とか「太宰治」とかフツーは高尚すぎて誰も読まないし読んでも難しくてよくわからないようなものにいきなりのめりこみ始めてしまうと、周囲から浮いてしまうというか、まわりの人たちが普段話しているようなことがとんでもなくしょうもなく感じてくるわけですね。


そこで重要なのは、「大衆をちゃんと相対化しろ」「非インテリ階層を客観視しろ」「むしろ大衆からの距離感を自らのインテリ上昇の糧としろ」ということです。具体的には、これは吉本の「日本のナショナリズム」とかでそれっぽいことが述べられていることですが、インテリ階層以外の普通の家庭や普通のコミュニティには、「刻苦勉励・立身出世」的なイデオロギー、吉本の言葉で言えば「ナショナル・ロマンチシズム」があたりまえに浸透しているわけです。簡単に言えば、「頑張って松下幸之助になるぞ」的などこにでもある上昇志向のメンタリティが、自分でも望んでいるし、周囲からも奨励されているわけですね。重要なのは、そのような上昇志向の「ナショナル・ロマンチシズム」が、インテリ階層のコミュニティ(あたりまえにマルクスが~とかアヴァンギャルドが~とかいった知的な話が日常的に話されているみたいなイメージ)においては(一見)存在しないことです。そのような「刻苦勉励・立身出世」的なイデオロギーである「ナショナル・ロマンチシズム」は、インテリ階層出身者のコミュニティの合理的で理性的な思考方法においては理想化されないのです。(ただ、知識人集団も一見そのような「ナショナル・ロマンチシズム」を排しているように見えながらも、実はそのような願望を抑圧しており、そのことは大きな問題ではないかというのが吉本の「日本のナショナリズム」の中に出てくる論点のひとつなのですが。)

そして、「大衆」をちゃんと相対化できなかった時、『転向論』に書かれる佐野・鍋山みたいなみじめな転向をしてしまうわけです。めちゃめちゃ矮小化した言い方でまとめると、「私もなんか一瞬目覚めてマルクスが~とか社会主義が~とかそれっぽい用語振り回してたけど、実際やっぱ日常の一日一日こそが一番大事なんだよ、インテリの議論なんて所詮プチブルのお遊びに過ぎない」みたいなことを言い出すようになるわけです。


ただこれは、「ナショナル・ロマンチシズム」を理想とする非インテリ階層の影響圏を本当には脱していなかったインテリ上昇中の人間の振る舞いとしては、至極スマートなふるまいですね。これを逆にこじらせてしまうとどうなるかというと、たとえば、これは吉本が『芥川龍之介の死』で論じていることですが、論理性があまり通用しない社会層を意識上の安定圏とするくせに無理やり知的な思考方法に留まろうとして芥川龍之介みたいな精神の危機に陥ってしまうわけです。芥川は、本当は「ボオドレエルの百行は人生の一こまにも若かない」的な、大衆的なフツーの心性を内に秘めていたにもかかわらず、「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と言い張って、自身の本当の価値観とは相容れないインテリ的な価値観を無理やり信じ込もうとしてしまったわけですね。

だから、論理性があまり通用しない社会層を意識上の安定圏とするくせにインテリ上昇をはじめてしまったプチブルは、大衆をきちんと相対化しなければいけない。さだまさしの歌などを聞いて心底から心を揺さぶられる自分の大衆性を自覚しなければいけないわけです。その上で、社会変革の力は、自分の庶民の生活意識からの背離感から生み出されていくことになるのです。


以上は、全体として中野重治「村の家」的な思考変換のやり方の、めちゃめちゃ大雑把な言い換えでもあります。