すみれ(菫)

吉本隆明/詩/大正炭鉱闘争/共産主義者同盟叛旗派/

吉本解釈

吉本解釈で、これは上手い(納得したかしてないかは関わらず)と思った解釈者は、全共闘世代でありフランス文学者の鹿島茂さん、一般向けの幸福論など書いている勢古浩爾さん、あと昔の人、吉本と同世代の人では谷川雁鶴見俊輔

それ以外はみんな"バカなんじゃないか"と思いながら読んだ。それ以外に何を読んだかは言わないでおくが、高尚な雰囲気ただよわせている学者どもの書いた吉本論なども大抵読んでいるが、ほんとうにバカなんじゃないかと思いながら読んだ。

吉本がまさに嫌っていたような奴らが奴らのやり方で吉本解釈してるんだから見てられたものではない。

学者が書いたものが的外れな印象を免れないことが多いのであって、反対に解釈といよりエッセイ的な文章では、ハルノ宵子さん、吉本ばななさんの書いた吉本隆明像など、大抵好きだ。

もはや腹が立つ

吉本隆明を伝達しようとしても成功した試しがない。高村光太郎の庶民意識と欧州留学、芸術の絡んだ乖離意識とコンプレックスをわかる人間が限られているようで、わからない人間には一生わからないものらしい。ほぼ誤解しかされたことがない。おそらく何の躊躇いもなく本などという高尚なものを読めるだけの知的上流階級は吉本隆明を読んでもつまらないのであり、同時にそのようなことを強調しようとしている私は吉本隆明の知的上昇経過の弁証法の解き明かしを学ぶことによってその庶民意識のコンプレックスを大衆からの背理感をその出発台とすることによって克服する必要がある。

吉本隆明『擬制の終焉』と『自立の思想的拠点』

吉本隆明擬制の終焉』(現代思潮社、1962)と『自立の思想的拠点』(徳間書店、1966)とが、私がずっと注目してきた吉本隆明の政治的著作だ。『擬制の終焉』には、「擬制の終焉」、「前衛的コミュニケーションについて」、「葬儀屋との訣別」など、『自立の思想的拠点』には、「自立の思想的拠点」、「思想的弁護論—六・一五事件公判について」、「情況とは何かI〜Ⅵ」、「日本のナショナリズム」などが収められている。あまりに情況に根差しすぎているし、個に押し寄せてくる情況にしか関心のなかった吉本は政治運動の波があらかた去ったらそれらはほっぽり出すので、その後の運動論は何もないが、これらの時期の著作で政治運動の未来と展望のほとんどを予言しつくしている。60年安保闘争→68年の流れや党派間抗争の流れを共に抑えながら読むことが重要だ。

Ernauxian(エルノクシアン)

実存的にインパクトを受けた小説の中の一つ、『ある女』(アニー・エルノー)をもう一度読んだ。やっぱり素晴らしかった。私にとってのみ。出身階層からの離脱ということを真に考えたフランスの小説家、アニー・エルノー(1940-)の思考様式を範とする、Ernauxian(エルノクシアン)。

(分かってもらえる自信がないこと)

分かってもらえる自信がない。けど、書く。吉本隆明の言っていることを分かっている人はいるのか。アニー・エルノーやピエール・ブルドゥーが言うフレーズを、私以外に分かる人はいるのだろうか。アニー・エルノーも、ブルドゥーも、分かってもらえないことを形式化させた。出身階級、意識上の安定圏たる論理的な思考があまり通用しない階層と、知的な上層階層との隔たりということの中で、言語や了解、信じるということについて我々は徹底的に問いをぶつけられてきたのだ。私の過去過ごしてきた街で、私の書いたものを読解してくれる人はいない。「書くとは裏切ったときの最後の手段である」(ジャン・ジュネ)。それでも、受け取ってくれる人はいるかもしれない。論理的な思考があまり通用しない階層でその幼いころに自我を形成してきた我々は、書くということについて、一回考えざるを得ないのだ。