すみれ(菫)

吉本隆明/詩/大正炭鉱闘争/共産主義者同盟叛旗派/

フーコー「知識人と権力」、「人民裁判について」が素晴らしい。

フーコー・コレクション4 権力・監禁』(ちくま学芸文庫)に収められている「知識人と権力」と、「人民裁判について—マオイスト(毛沢東主義者)たちとの討論」が素晴らしい。なされていることは、まさに<革命(運動)の革命>である。

 

ひとつめの「知識人と権力」は、フーコードゥルーズとの対話であるが、まずフーコー毛沢東派の活動家から「ドゥルーズがなぜ活動家と連帯しているか皆目検討がつかない」と言われたという話に、ドゥルーズが返答するところから始める。

 

「おそらくわれわれが理論と実践という関係を、これまでにはないやり方で生きつつあるからでしょう。」(ドゥルーズ)

 

ここでのドゥルーズによれば、実践と理論とは以下のようなものだ。

 

「実践とは、理論のある一点から他の一点へといたる中継の総体であり、理論とは、一つの実践から別の実践への中継のことなのです。」(ドゥルーズ)

 

つまり、「実践とは理論の一適用であり、逆に理論の源泉でもある」というかつての実践-理論関係に対する理解が無効であるということを宣言しているのだ。

 

人民裁判について」は、プロレタリア左派というフランスのニューレフトの党派の活動家とフーコーとの討論である。

 

フーコーは、裁判所というものが国家装置の萌芽であって、下層民とプロレタリアとの分断を生むものだと言う。

 

長くなるが、引用しよう。

 

「ところが、(1972年の)九月に大量処刑が始まるやいなや、パリのコミューン出身者、もしくはそれに近い連中が介入してきて、裁判所という舞台を設営した。その舞台では、長机の後ろに控えた判事たちが、「復讐を叫ぶ」人民と、「有罪」であったり「無罪」であったりする被告たちとのあいだの第三の審級を代表する。「真実」を確定するため、あるいは「自白」を得るための尋問があり、何が「正当」であるかを知るための審級がある。つまり、権威の手によって万人に押しつけられた審級である。ここには、まだ崩れ易さの感はぬぐえないとはいえ、一つの国家装置の萌芽が再び姿を現しているのではないか?階級的抑圧の可能性が再び姿を現しているのではないか?人民とその敵のあいだに、真と偽、有罪と無罪、正当と不正の区別を打ち立てるものとして一個の中立的な審級を設置するということは、人民の正義に対抗するための手段ではないか?観念的な仲裁を盾にとって、現実の闘争における人民の正義を非武装化するための手段なのではないか?裁判所とは、人民の正義の一形態であるどころか、その最初の歪曲なのではないか、と僕が疑うのもそうした理由による。」(フーコー)

 

人民裁判の場合、三つの要素があるわけではない。あるのは大衆とその敵だ。その場合、体臭が誰かを敵とみなし、その敵を懲らしめてやろう—あるいは再教育してやろう—と決意するとき、大衆は、正義という抽象的な普遍概念などには頼らずに、単に自分たちの経験に依拠する。つまり自分たちが受けた損害の経験、自分たちが傷つけられ、虐げられた時のやり方に倣うのだ。しかも、彼らの決定は権威をともなった決定ではない。つまり、彼らは決定事項に価値をもたせる能力を備えた国家装置などには頼らずに、単純かつ純粋に自分たちの決定を実行に移すのだ。したがって、僕のぬぐいがたい印象としては、裁判所という組織、少なくともその西欧的な組織が、人民の正義という実践とは無縁たらざるを得ない、ということだ。」(フーコー)

 

「ところが、僕の見たところ、国家装置としての司法は、歴史のなかでまさしく第一級の重要性をおびてきたのである。刑法体系は大衆のなかにいくつかの矛盾をもちこむことをもって、その機能としてきた。そして、その矛盾の最たるものは、プロレタリア化した下層民とプロレタリア化していない下層民を互いに反目させる、というものだ。中世において本質的に収税機能を果たしていた刑法体系が、ある時代以降、暴動抑止の闘いに専念するようになった。それまで、民衆暴動の鎮圧はとりわけ軍隊の仕事だった。それが、ある時から、司法=警察=監獄の複合システムをもって対処される、というよりもむしろ予防されるようになったのだ。これは、実際に三重の役目を負ったシステムである。そして、各時代、闘争の現状や一般の社会情勢に応じて、ある時はそのうちのどこかの側面がら別の時はまた別の側面が幅を利かせるのだ。一方に「プロレタリア化」という要因がある。これはプロレタリアという身分と、プロレタリアートに対する搾取の条件を民衆に力づくで受理させる役目を果たす。このことは、中世末期から18世紀にかけて非常にはっきりと見てとることができる。物乞い、浮浪者、無為の者たちを対象にした数々の法、......(略)」(フーコー)

 

このあとにかなり重要な一節が出されるのだが、引用が長くなりすぎてきたので、このあたりでやめにしておく。フーコーは、浮浪者や物乞い、こそ泥をはじめとする「下層民」について、「民衆運動の際、彼ら(=下層民)に切り込み隊の役目を果たさせないようにするため」の装置が、権力側に存在していたという。そして、裁判所とは、「プロレタリア化した下層民とプロレタリア化されてあない下層民を対立させ、錨を下ろすようにしっかりと矛盾を導入してやる」ものだという。まさに分断支配統治である。そしてフーコーは言う。「革命は、司法装置の根本的な除去を経ずしてはあり得ない」(フーコー)。