すみれ(菫)

吉本隆明/詩/大正炭鉱闘争/共産主義者同盟叛旗派/

竹内芳郎と吉本隆明

竹内芳郎吉本隆明の論争の大枠がだいたいつかめてきた。これは、50年近く前の論争を今振り返ってみて言えることだが、竹内芳郎のある本のページを読んで、どうも何やらおかしくなってしまい笑ってしまった。

 

竹内芳郎イデオロギーの復興』p.86,87

 

竹内芳郎は、(安保闘争前後の)吉本隆明とほとんど同じことを言っている。「ん、これは吉本が言ってることと同じことではないか?」と思って読み、その末尾に竹内芳郎は自分は吉本とほとんど同じことを言っているのだと書いてあるのを読み、竹内芳郎も吉本のことを理解していることと、竹内芳郎自身も吉本と自身が似ていることを自覚していることが分かった。

 

吉本の竹内芳郎批判も読んでみた。「SECT6について」の中の一節だ。

 

「ことに花田清輝は、某商業新聞紙上で、わたしの名前を挙げずに、わたしをスパイと呼んだ。わたしが、この男を絶対に許さないと心に定めたのは、このときからである。それとともに、対立者をスパイ呼ばわりして葬ろうとするロシア・マルクス主義の習性を、わたしは絶対に信用しまいということも心に決めた。わたしは、それ以来、スパイ談義に花を咲かす文学者と政治運動家を心の底から軽蔑することにしている。  後に、香山健一(現、未来学者)、竹内芳郎などが、わたしを「右翼と交わっている」と宣伝し、ことに竹内芳郎は雑誌『新日本文学』に麗々しく「公開状」なるものを書いた。わたしは、この連中が、どういうことを指そうとしているかが、直ぐに判ったが、同時にそれが虚像であることも知っていたので、ただ嘲笑するばかりであった。もっとも「新日本文学会」が竹内芳郎の「公開状」の内容に組織的責任を持つならば、公開論争などをとび越して、ブルジョワ法廷で、竹内芳郎および「新日本文学会」を告訴し、その正体を暴露してもいいと考えて注目していた。しかし「新日本文学会」は、その後の号の雑誌で、小林祥一郎署名で責任を回避した。わたしは竹内芳郎というホン訳文士などを相手にする気がないのですっかり調子抜けしてそのままになった。わたしは、たとえ百万人が評価しても、竹内芳郎や「新日本文学会」などを絶対に認めない。かれらが、いつどういうふうにデマゴギーをふりまくかを知ったので、その後、いっさい信用しないことにしている。これらの多角的に集中された、批難と誣告とは、ただひとつの共通点をもち、また共通の感性的、思想的な根拠をもっている。それは、どんな事態がやってきてもわたしが決して彼等の組織の同伴者などに、絶対にならないだろうということを、彼等が直観し、あるいは認識しているということである。そしてこの直観や認識は当っているといってよかった。そして、またこれこそが、誰れにも頼るなというわたしの安保体験の核心であった。」(「SECT6について」吉本隆明)

 

安保闘争後のあとで、度重なる敵対者たちの攻撃から要はなんとか身を守ろうと苦心する吉本の心情が書かれている。「わたしは、頼るな、何でも自分でやれ、自分ができないことは、他者にもまたできないと思い定めよ、という考え方を少しずつ形成していったとおもう。」(「SECT6について」吉本隆明)。

 

すべての人物を敵に回してたとしてもほんとうだと思ったことは言わざるをえない。安保闘争後の吉本が感じた教訓からは、組織的な運動形態は導かれるとは思えない。全共闘運動のノンセクト・ラジカルは吉本のそのような側面に影響を受けた。そしてそのノンセクト・ラジカルも吉本が直接支持していたわけではない。ノンセクト学生らが勝手に影響を受けていただけだ。吉本のパフォーマティブな姿勢はいつも遠くで作用する。そして、吉本自身は運動のことを考えているとは思えない。吉本は<運動族>ではないのだ。吉本は情況が強いたものにただその都度対応していくだけだ。「わたしはもっと強い欲望を持っている」と谷川雁は吉本に対する一節で言う。吉本に谷川雁のような欲望は感じられない。吉本は敗戦以降、「不可避性」によって動いている。

 

わたしは、「政治」という固有の領域において吉本の著作を全面支持するとは限らない。そのような固有の領域があるとして、だ。

 

竹内芳郎は結局のところ吉本の方向性を正す方向に励ますという知識人として真っ当なかたちの言論形態をとっている。しかし、吉本の書いていることは自己との対話と区別のつかない、殆ど独り言だ。そのような二人を交わらせるだけの状況には当時の社会状況はなかった。